新しい教育スタイルをつくる
今の公教育って、あまりにも実社会とかけ離れていて問題が多すぎると思いませんか?
- 決められたルールに疑問を持つことを許さず、ただ従順であることを要求する。
- 学校が理想とする子どもの型にハマらない生徒は、無理やり矯正しようとする。
- 空気を読むことと協調性を必要以上に重視し、自己主張を歓迎しない。
ほかにも問題はありますが、あまりにも多すぎて、ひとつひとつ挙げていったらキリがありません。
しかし、最近では不登校児童の急増や教員のなり手不足など、学校教育の崩壊を予見させる事象が目立つようになってきています。
じつのところ、私はそう遠くない未来に、公教育の本格的な崩壊が起きるのではないかと予想しています。
では、崩壊した旧い教育の瓦礫の上に、どんな新しい教育スタイルをつくっていけばよいのでしょうか?
そんな新しい教育スタイルについて、このブログ『スタナビ』を通して考えていくつもりです。
運営者トネリコについて
『スタナビ』運営者であるトネリコについて知っていただくために、子供時代のエピソードから紹介していきたいと思います。
早期教育を強制された幼少期
東京にて長男として生まれる。
父は銀行員で母は専業主婦。6つ年上の姉あり。
幼稚園児の頃は、母から英語や算数、国語などの早期教育を受けていました。
そのせいで遊びを我慢させられたので、早期教育に対しては嫌な思い出しかありません。
母は当時としては珍しい国立大学出身の女性でした。
卒業後はろう学校の教師として働いていたそうですが、結婚を機に退職せざるを得なくなり、「もっと社会で活躍できたはずなのに」といった鬱屈した感情を持っていたようです。
私に早期教育を強制したのは、おそらく長男である私を通して自己顕示欲を満たしたいという気持ちがあったのでしょう。
ちなみに、母型の祖父と叔母はともに小学校の教師でした。
私自身は教師になりたいと思ったことはありませんが、教育にこだわる母型の血筋は受け継いでいるのかもしれません。
勉強漬けの小学生
公立小学校に進学すると、母の教育熱はさらに加熱していきます。
学校から帰ると、宿題だけでなく母が用意した独自の学習メニューを終わらせないと遊びに行くことは許されません。
専業主婦である母は、父から女中扱いされていることに鬱憤があったので、その怒りを私への教育にぶつけていたのでしょう。
すべての学習が終わるまで2時間近くかかってしまったので、それから遊びに行っても、友達がどこで遊んでいるのか分かりません。当時はスマホもなかったですしね。
ですから、放課後は一人で近所の壁に向かってボールを投げていることが多かったですね。
また、家ではテレビを見ることもほとんど許されていなかったので、学校でも友達の話題に入りづらかった記憶があります。
天才より普通になりたい
放課後、友達と一緒に遊ぶこともなく、テレビも見ないとなると、学校ではちょっと浮いた存在になっていきます。
とはいえ、学校の成績は非常に優秀で、周りからはよく「天才」と言われていました。ちっとも嬉しくなかったですけどね。
だって当然ですよね。人が遊んでいる時に勉強していたんですから。
逆に「天才」と言われると、まるで自分がなんの努力もせず、「たまたま勉強に向いていただけ」と言われれているような気がして、かなりモヤッとくるものがありました。
勉強のことより、自分が周りの子と違っていることが嫌で嫌で仕方なかったですね。なので、その頃の私の願いは「普通になりたい」でした。
ちなみに、当時の小学生男子の例にもれず、私も野球が大好きだったので少年野球チームに入りたかったんですが、親に聞き入れてもらえることはありませんでした。
今、自分の子どもたちには好きなように習い事をさせています。子どもの頃の不満がその大きな理由であることは間違いありません。
教師の暴行で死の恐怖を味わう
小学4年生のとき、死の恐怖を味わう事件がありました。
やんちゃ盛りだった当時、たしか友達と校内で鬼ごっこをしていたんですが、ちょうどその場にいた体育教師につかまって、思いっきり頭を壁に打ち付けられたんですね。
注意の言葉も何もなく、いきなりでした。
その時は「頭いってーっ!」くらいでしたが、家に帰ってからだんだん痛みと吐き気が増してきて、ついには嘔吐しました。
こんなことは生まれてはじめてだったので、「自分はもう死ぬんだ!」と本気で思いましたね。
典型的な脳震盪の症状だったんですが、その後1週間、高熱と吐き気と嘔吐で寝込みました。
その間、校長に連れられて体育教師が謝罪に来ましたが、「上司に逆らえず仕方なく」といった雰囲気がありありでしたね。
このときの体験は、教師に対する不信感が芽生えるキッカケになりました。
家庭崩壊の中学生時代
母の洗脳に従うまま私立中学を受験しましたが、第1志望は不合格、第2志望は合格したものの、通学時間が長すぎるということで結局地元の公立中学に進学することに。
その頃には、父のモラハラやパワハラに対して母は自室に引きこもるようになり、家庭内別居状態になっていました。
母は口癖のように「離婚する」と言っていました。経済的に無理なので言葉に出すことでストレスを紛らわしていたのでしょう。事実上の家庭崩壊ですね。
しかし、世間体を気にする母は、私に対しては「家のことは決して外に漏らしてはいけない」としきりに釘を差していました。
今にして思えば、すいぶんと勝手な言い草ですが、当時はまだ母の言うことを素直に聞いていたので、言いつけを固く守っていました。
そのため、誰にも相談できずに、いっそう孤独感を深めていくことになります。思春期入りたての時期に、この孤独感は辛かったですね。
けっきょく判断を母親に依存して、自分の頭で考えることができなくなっていたんです。
母にとっては、素直な”いい子”だったんでしょうね。
三児の父として20年以上子育てを実践
このような子供時代を経て、紆余曲折の末、現在は三児の父として、子どもたちの教育をしています。
とはいえ、長男はすでに成人ですので、今はお互いに教え合う仲ですね。独学でプログラミングを修得し都内の企業にインターン中の大学3年生です。
長女はダンスや歌、イラスト、アニメが好きな中学2年生で、やや不登校ぎみ。診察してもらったところ起立性調節障害とのことでした。
1年以上の学業の遅れがありましたが、コロナ休校を機にスタディサプリを使って一気に遅れを挽回しています。
生き物や料理、工作が好きな小5次女も以前は学校へなかなか登校できず、保健室の常連でした。彼女もコロナ休校で一気に学習を進めて、今はプログラミングや英語を先取り学習中です。
子育てはかれこれ20年以上になります。この間、さまざまな失敗や葛藤がありましたが、それはまた別の機会に。
自分だからこそ発信できること
振り返ってみると、教育で自分の人生のかなりの部分を狂わされたなと思います。
教育って怖いですよ!
父と母はすでに亡くなってますが、今でも恨みがないかといえば嘘になります。ただ、彼らにも同情すべき点はあると、大人になった今だからこそ思えますけどね。
毒親がやっていることってある種の虐待なんですが、虐待ってどうしても連鎖しがちなんです。なぜなら、そういった育て方しか知らないから。
ですから、自分の子どもに向き合うときも、母の教育方法を無意識のうちになぞってしまう自分を抑えるのに必死でした。
実際には抑えきれないことも多かったので、子どもには今でも申し訳ないなあと思ってます。
でも、そんな経験をしてきた自分だからこそ伝えられることもあるはずです。
きっと今でも、あの頃の自分と同じような境遇にいる子や、間違った子育てを正しいと信じて一生懸命やっている母のような人がいるのでしょう。
このブログを通じて、そんな人たちに何かヒントになるようなことが与えられたら嬉しいですね。
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